昼間の熱気がゆっくりと家の中まで入り込んでくるころ、冷たい飲みものが恋しくなる。氷の入った麦茶を、コップでぐいと飲むような、そんな季節になってきた。
そう思ったとき、手に取るのはいつも片手で扱える小さなミルクパン。コンロの前に立って、お湯を沸かす。その静かなひと手間が、何ともいえず落ち着く。
使っているのは、ステンレスのミルクパン。取っ手がしっかりしていて、ひとり分にはちょうどいいサイズ。大げさな道具じゃないのに、湯を注ぐときも、片付けるときも、妙にしっくりくる。家の中にひとつだけこういう道具があると、暮らし全体が少し整うような気がする。
鍋に水を入れ、麦茶パックをひとつ放り込んで火を点ける。しばらくすると、ふわっと香ばしい匂いが立ちのぼる。湯気が鍋の縁からふんわりと昇っていく様子を、ぼんやり見つめていた。たったこれだけのことで、時間が緩やかに流れるのを感じる。
台所の棚から、いつも使っているガラスのピッチャーを取り出す。これももう何年使っているかわからないけれど、口が広くて洗いやすく、注ぎやすい。結局、毎年夏が来るたびにこれに戻ってくる。
火を止めて、少しだけそのまま置いておく。しっかりと抽出された麦茶は、色が濃くて、香りもしっかりしている。こういうとき、急いで冷まそうとは思わない。流しの隅で、鍋ごとしばらく冷まして、それから冷蔵庫に移す。
その間に洗い物をしたり、窓を開けたりしていると、空気の熱が少しずつ変わっていくのがわかる。夏の入り口にしかない、ちょっとまとわりつくような、でもどこか懐かしい暑さだ。
数時間後、鍋から麦茶をピッチャーに移して、冷蔵庫にしまう。氷を入れたガラスのコップに注いで、ゆっくりと飲む。少し苦味のある、しっかりとした味。これを飲むと、夏が来たなと思う。
ほんのひと口で、汗が引いていくような気がする。喉が潤うだけでなく、気持ちまでもすっと落ち着いていく。きっとそれは、飲みものの冷たさだけじゃなくて、作る過程そのものに癒やされているのかもしれない。
特別なことは何もない。ただ麦茶を作って飲んだだけの午後。でも、そういう時間の中でこそ、道具の存在感がすっと浮かび上がるような気がする。
台所に立つと、自然に手が伸びる。静かに、控えめに、けれど確かに役に立ってくれる道具。今日もまた、そのミルクパンに助けられたような気がしている。
道具を選ぶとき、最初からすべてを語ってくれるものは少ない。でも、こうして使いながら、少しずつわかってくる。たとえば、注ぎ口の形。洗いやすさ。熱の伝わり方。日々の中で、それが“しっくりくる”という実感に変わっていく。
このミルクパンも、いつの間にかそんな道具のひとつになっていた。どんな場面で使っても、出しゃばらず、でも頼りになる。それが何よりありがたい。
今年の夏もまた、この鍋と一緒に麦茶をつくっていく。
▼しずかな時間に馴染むもの▼
小ぶりで扱いやすい、片手ミルクパン。
湯を沸かすにも、少量の煮出しにもぴったりな、日々の台所に自然と馴染む道具です。

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