夕方の光がやわらいできて、部屋のなかにあるものの輪郭が少しぼやけるようになると、
なんとなく一日が折り返されたような気がして、少しだけ丁寧に過ごしたくなる。
火を使って食事の支度をするのも、そのひとつの形かもしれないと思った。
冷蔵庫に、塩をふっておいたサバの切り身がひとつあった。
魚を焼く前に軽く表面の水分を拭き取って、焼き網にそっとのせる。
火を入れてしばらくすると、皮のあたりがじわじわと膨らんで、
ほどなくして小さな音がぱちぱちと響き始めた。
焼きあがるまでのあいだに、ご飯をよそう。
土鍋の蓋を開けると、まだほんのりとあたたかくて、
しゃもじを入れると、表面のご飯がゆっくりとほぐれた。
器によそうと、やさしい香りがふっと立ち上がってきた。
焼き上がったサバは、いつも使っている横長の皿に盛りつけた。
この器には、焼き目のついた魚がよく似合う気がして、つい手に取ってしまう。
装飾らしい装飾はないけれど、どこか落ち着いた雰囲気があって、
焼いたばかりの魚をそっと受け止めてくれるように思える。
味噌汁は、豆腐とねぎを使って簡単に。
鍋に火をかけると、味噌の香りがゆっくりと立ちのぼってくる。
湯気を見ていると、時間がゆるやかになったような気がした。
食卓に並べたのは、ご飯と味噌汁、それに焼き魚。
おかずはそれだけでもよかったけれど、
昨日作って残っていた小鉢をひとつ、器ごと添えた。
机の上にあるのは、音を立てるものが何ひとつない。
でも、それが少しもさびしく感じられなかった。
最初に、味噌汁をひと口。
体の内側にゆっくりとあたたかさが広がっていく。
それから、ご飯を少し。
続けて、焼き魚の皮を箸で少しめくる。
その下の身に、そっと箸を入れると、ふわっとやわらかく崩れた。
香ばしさと脂のうまみがちょうどよく口に広がって、
ご飯との相性がじんわりと重なってくる。
湯気が残っているうちに食べたくて、箸を動かす。
魚の焼き目がきれいに見えて、焦げすぎていないことに少しほっとする。
魚の脂が器の表面に少しだけ残っていて、
そのまわりにうっすらと色がにじんでいるのも、
焼き魚を食べる夜ならではの風景のような気がした。
途中、ご飯に魚の身を少しのせて食べる。
脂がほんのりご飯にしみて、思いがけない満足感があった。
音楽もテレビもなく、ただ箸の音だけが静かに響く。
食べることに集中しているというよりも、
目の前にあるものを、ひとつずつゆっくりと味わっているという感じに近い。
ふと、お皿の端に残った骨をよけながら、
器の余白がきれいだと思った。
焼き魚の形と、皿のかたちがちょうどよく重なっていて、
何も考えていなかったのに、すっと馴染んでいるような配置になっていた。
味噌汁を飲み終えたころには、ご飯もほとんど残っていなかった。
箸を置いて、しばらく机の上を見ていた。
魚の香りがまだ空気に残っている。
湯気はもう消えてしまっていたけれど、食卓の上に温かさはわずかに残っていた。
洗い物をする前に、椅子に浅く座り直して、少しだけ背を伸ばす。
こういう夜の静けさを、今日は体が求めていたような気がする。
丁寧に作ったというよりは、整えてみたくなった夜だった。
魚の身をしっかり食べきったあとの皿を見て、
それを洗うことすら面倒に感じないと思った。
食べたあとの器を片づけるとき、
どこかで気持ちも一緒に整理されていくような感覚がある。
窓の外では風が弱まってきていた。
カーテンの端が動かなくなったころ、部屋の空気も静かに落ち着いていた。
焼き魚の香りはもうほとんど残っていないけれど、
器の上にのぼった湯気のことは、たぶん夜が明けても覚えている気がした。
▼しずかな時間に馴染むもの▼

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