朝、早く目が覚めた。
夏が近づくにつれて、自然と目が覚める時間が早くなっていく。
カーテンの向こうからやわらかい光がさしていて、少しだけ風もある。
顔を洗い、簡単に掃除を済ませて、キッチンに立つ。
今日はそうめんにしようと思っていた。
冷蔵庫には昨日の残りの茹で鶏があって、大葉とみょうがも買ってある。
昼に食べるにはちょうどいい。
お湯を沸かしながら、薬味を刻んでおく。
まな板の上で、包丁の音が小さく鳴る。
みょうが、大葉、そして白ごま。
茹で鶏も手で割いて、軽く酒をふって電子レンジで温め直す。
そうめんを茹でるのは、ほんの一分半ほど。
お湯の中で踊るようにほぐれ、すぐに透明感が出てくる。
火を止めたら、すぐにざるに上げて、冷水に落とす。
氷を入れたボウルの中で、そうめんがふわりと広がっていくのを見ていると、気持ちまで落ち着いていく。
水をよく切って、最後に手でそっとまとめる。
このとき、使うのは竹のざる。
濡らした布を敷いた上にそうめんをのせると、涼しげな輪郭がそこに生まれる。
ざるの上に広げたそうめんは、思っていた以上に静かだ。
盛りつけというよりは、そっと置く。
竹ざるは、受け止める。
器ではなく、風が通る場所として、そこにある。
陶器やガラスとは違って、ざるには沈黙の余白のようなものがある。
水分を逃がしながら、涼しさだけを残してくれる。
それが、暑い日の食卓にはちょうどいい。
そうめんの白、大葉の緑、みょうがの紫。
すべてがきれいに見えるのは、竹の色が控えめで柔らかいからだと思う。
目に入ってくるもののひとつひとつが、浮きすぎず沈みすぎず、整っている。
つけつゆを注ぎ、小皿に薬味を並べ、食卓に運ぶ。
食べる前に、少しだけ眺めていたくなるような風景。
手を合わせて、箸をとる。
最初のひと口は、薬味なしで。
そうめんの冷たさと、つゆのだしの香りが、喉の奥にやさしく落ちていく。
竹ざるの上から箸でそうめんをすくうときの、軽い引っかかりが好きだ。
布にくるまれていることで水分が飛びすぎず、けれど余計なぬめりもない。
そのちょうどよさが、味にまで響いている気がする。
少しずつ薬味を加え、茹で鶏を添え、冷たいほうじ茶をすする。
外から聞こえるのは、風の音と、時おり遠くを通る車の音だけ。
静かな午後が、じんわりと続いていく。
食べ終わったあと、竹ざるは水で軽く洗って、干す。
布をはずして、日が当たる窓辺に置いておくと、自然と乾いていく。
濡れた竹が少しずつ元の色に戻っていくさまは、見ていて心地いい。
風が通り、熱が抜けていく道具は、見た目だけでなく気持ちにもすっと馴染む。
重ねることもできないし、収納には少し場所をとるけれど、それでも竹ざるはしまいこまずに、よく使う位置に置いてある。
野菜をのせるときも、果物を乾かすときも、いつも静かにそこにいる。
何かを整えすぎないまま、形になるという感覚。
器と違って、竹ざるは料理の途中にも似合う。
盛る直前でも、食べたあとでも、どの時間にも自然に馴染む。
また暑くなったら、そうめんにしよう。
次はすだちを添えてもいいし、冷たい茄子のお浸しを一緒に出すのもよさそうだ。
ざるにのせた料理は、味だけでなく、空気ごと整えてくれる。
竹の色と、そうめんの白。
そのあいだにある静かな余白が、夏の午後にちょうどいい。
▼しずかな時間に馴染むもの▼
通気性がよく、洗った野菜や冷たい麺をやさしく受けとめてくれる竹のざるです。
盛りつけるだけで、食卓に涼しさと余白が生まれます。

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