冷や汁のまわりの空気

朝から空気が湿っていて、体を動かすのもすこし億劫な日だった。
梅雨が明けて日差しこそ強いけれど、風が通るわけでもなく、空気がどこか滞っている。
それでも、何かを作って食べたいと思えるのは、きっと、台所にすり鉢があるからだと思う。

今日は冷や汁にしようと思っていた。
焼いた味噌とすりごまを、冷たい出汁でのばして、薬味をたっぷりのせる。
暑い日に火を使うのはなるべく短く済ませたいけれど、すり鉢だけはいつもどおり、手元に置く。

朝のうちに出汁を取って冷蔵庫で冷やしておいた。
出汁の材料は、煮干しと昆布だけ。ほんの少しの塩を加えておくと、味がすっとまとまる。

味噌は少しだけ焦げ目がつくように焼いて、香ばしさを引き出す。
それをすり鉢に入れて、白ごまを加える。
木のすりこぎは今日は使わない。かわりにスプーンで、焼き味噌とごまを押しつけるようにして混ぜる。
粒が砕ける音や、器の内側をなでるような音が、静かに部屋に広がっていく。

それだけで、すこしずつ空気がやわらぐ。

細かくなってきたところで、冷たい出汁を少しずつ加えてのばしていく。
ざっと加えてしまうのではなく、すり鉢の中で味噌とごまがゆっくりと混ざっていくように。
白濁した出汁が、すこしだけとろりと重たくなって、香りが立ち上がる。

薬味は、大葉、みょうが、きゅうり、ねぎ。
すべて細く刻んで、氷水にさらしておく。
薄くしたきゅうりの切り口に水滴がたまっていくのを見ながら、冷蔵庫から麦ごはんを取り出す。
熱々のごはんもいいけれど、今日はすこし冷ましておいたほうが合う気がした。

すり鉢の中の冷や汁を、陶器の注ぎ鉢に移しておく。
氷を2、3個落として、薬味の香りが混ざりすぎないように、そっと混ぜておく。

食卓に器を並べて、椅子に腰を下ろす。
ごはんに薬味をのせて、冷や汁を上から注ぐ。
注いだときに、氷の音が器の底で軽く鳴って、さっと静かになる。

口に運ぶと、すこしだけ焦げた味噌の香りが先に立って、そのあとにごまの甘さが広がる。
冷たい出汁は舌の上でなめらかにひろがって、あとから薬味の辛みがやってくる。
噛むほどに、きゅうりの水気とみょうがの香りがふわっと重なって、やがて溶けていく。

ごはんの粒が、冷たい汁のなかでほどけるように馴染んでいく。
口のなかが冷たさだけで満たされるのではなく、じんわりとした旨みと香りが残る。
この「ちょうどよさ」は、すり鉢のなかで混ぜているときから、すでに始まっていたような気がする。

二口目、三口目と食べすすめるうちに、少しずつ体が落ち着いてくる。
食欲が落ちていると思っていたのに、箸が止まらない。
一度手を止めて、冷たいお茶を一口飲んで、また器に戻る。
最後のひとさじを、ゆっくりすくって口に運ぶ。

冷たさではなく、味の深さだけが、あとに残る。

食べ終えて、器を台所に運ぶ。
まだすこし冷えているすり鉢を、ぬるま湯で洗う。
中の肌を傷つけないように、指の腹でなでるように洗っていくと、手の感覚が元に戻ってくる。

表面に少しだけ残ったごまの香りが、水にふれてまた立ち上がる。
その香りにふっと気を抜かれるとき、今日という日のまんなかにいる気がする。

すり鉢は、洗っても拭いても音がしない。
それが好きだ。

すべてを片付けたあと、扇風機の前に座って、水を一杯飲む。
扇風機の風が、すこしだけ肌にまとわりつくけれど、さっきより涼しく感じるのは、冷や汁のせいかもしれない。

また暑くなったら、すり鉢を出そうと思う。
使わない日があっても、しまいこまずに、見える場所に置いてあるのがいい。
料理をつくるというよりも、なじむ。
そういう時間に寄り添ってくれる道具だと思う。

今日の午後は、なにも予定を入れずに、静かに過ごしたい。

すり鉢はもう乾いて、いつもの位置に戻っていた。

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器としての表情がありながら、混ぜる・和える・注ぐを受け止めてくれます。
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