風がやさしい夜の食卓

朝から気温が上がるようになってきた。
洗濯物を干す手が少し汗ばんで、ベランダの柵に触れると、鉄の温度がもう夏のものになっている。
それでも、日が傾きはじめる頃には風がやわらぎ、窓を開けておくだけで、空気の粒が変わったことに気づく。
夏が近づいている。でもまだ完全には来ていない、そんな季節。

今日は少し早めに食事の支度をはじめることにした。
空がまだ明るいうちから、包丁の音をキッチンに響かせる。

クリームパスタにするつもりで、冷蔵庫の中を見て、少しだけ迷う。
玉ねぎと、ブロッコリーと、鶏むね肉がある。
それに、昨日の残りのしめじとエリンギ。
具材はそれで十分。パスタというより、もう「具材の中にパスタがある」と言った方が正しいくらい。

スープは、軽めの野菜スープにする。
ほんの少し夜の冷えが残るような日は、あたたかいものがありがたい。

コンロの端で、白いホーローの片手鍋を火にかける。
手に持つと、見た目よりも軽く、けれどしっかりとした厚みがあって、
中のスープが静かに熱を帯びていく音が、まるで部屋の温度と対話しているようだ。

この鍋を使うようになったのは、去年の秋。
店先でたまたま見かけて、何気なく買った。
特別なものじゃないけれど、手に取ったときの感触が、なぜか心に残っていて、
それからスープを作るときは、だいたいこの鍋に頼っている。

お湯が沸いたころを見計らって、コンソメをひとかけ。
ざく切りにしたキャベツと人参、少しだけベーコン。
スプーンでかき混ぜながら、ふと鍋の縁に手を置く。
表面がほんのり温かくなっていて、じんわりとした熱が指先に伝わる。
そういえば、夜風が肌にあたるとき、この鍋のぬくもりを感じるのが好きだったことを思い出す。

キッチンでの支度を終えたころには、窓の外がすっかり淡い色に染まっていた。
夕方と夜の境い目のような、青みがかったグレーと橙色が混じり合う時間。
音も少なく、遠くで誰かがドアを閉める音が、やけにくっきりと聞こえる。

テーブルを整える。
ランチョンマットを敷いて、スープは鍋からそのまま厚手のスープカップへ。
サラダにはオリーブオイルと塩だけをかけた。
盛り付けたパスタは、皿の中でほんのり湯気を立てている。

椅子に腰掛けて、スプーンを手に取る。
まずはスープから。
キャベツがくたっとして、けれど芯が少し残っていて、やさしい味になっていた。

今日のパスタは、野菜の甘さがよく出ていて、ブロッコリーの緑が目にもやさしい。
スープと一緒に食べると、体が少しずつ緩んでいくような気がする。

食べながら、ふと思う。
こういう時間が、日々の癒しになるのかもしれない。
静かで、何も特別なことはなくて、でも心が整っていくような夜の食卓。

食べ終わって、カップを持ち上げる。
まだほんの少しだけ、底にスープが残っていて、最後の一口をすくう。
ぬるくなったその温度が、心地よくて、ほっとする。

キッチンに戻って、片付けながら、またホーローの鍋を洗う。
水を流すと、鍋の白が少しだけ曇る。
でも、それも含めてこの鍋の好きなところだ。

使い込むほどに馴染んでいく道具。
派手さはないけれど、あるだけで安心できるもの。

また明日も、何か温かいものを作るのだろう。
たぶん同じような時間に、同じような光と風の中で。

そう思える暮らしが、きっといちばんいい。

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