夜の匂いと湯の気配

鉄器のやかんを使うようになったのは、少し前にふらりと立ち寄った雑貨屋で見つけたのがきっかけだった。
棚のいちばん奥、少し埃をかぶったような佇まいで置かれていたそのやかんは、重たくて、少し無骨で。
でも、なぜか心惹かれてしまって、しばらく見つめたあとに、そっと手に取っていた。
持ち帰って初めてお湯を沸かした日、台所の音がいつもより静かに感じた。

それ以来、白湯を飲むのも、出汁をとるのも、ほとんどこのやかんになった。
使えば使うほど、鉄がなじんでくるような感覚があって、見た目の武骨さとは裏腹に、扱うときの所作が少し丁寧になるのだった。

夜がすっかり深まって、風も止んだころ。
ひと仕事終えて、ようやく静かになった部屋に明かりをひとつ。
小さな間接照明の光だけを頼りに、ゆっくりと食事の支度を始めた。

今夜は少し丁寧に、野菜を中心にしたやさしい献立にしようと思った。
にんじん、玉ねぎ、小松菜。冷蔵庫にあったものを切って、軽く炒める。
火を通しながら、横では出汁をとるために鉄器のやかんに水を入れて火にかけていた。

このやかんを使うようになったのは、つい最近のことだった。
お湯の味がまろやかになる、と聞いて手に取ったものだけれど、実際に使ってみて、それは本当だった。
鉄が熱をゆっくりと通してくれるのか、ぐらぐらと煮立つ前の、お湯の呼吸のような音までが穏やかで。
台所の小さな炎の上で、黒い器がしんと静かに温まっていく様子が、なんとも好きだった。

夜の台所で、やかんのふたがかすかに揺れる音を聞きながら、野菜を切る。
包丁の音がまな板にトン、トン、と響き、まるでリズムのようだった。
小松菜を洗う水の冷たさ、玉ねぎを炒めたときにふわっと広がる甘い香り。
五感すべてが、少しずつ夜の支度を整えてくれる。

食事の準備が整うころには、部屋の空気が少し温かくなっていた。
料理ができあがる頃には、台所の熱と、味噌汁の湯気が優しく部屋を包み込んでいた。
テーブルにごはんを並べて、椅子に腰を下ろす。
誰かと話すわけでもなく、にぎやかな音楽が流れているわけでもない。

だけど、この静けさこそが、今の自分にとっていちばんのごちそうだった。

炒めた野菜に出汁を注ぎ、味噌を溶かす。
その横では、小さな土鍋で炊いたごはんが、湯気を立てていた。
いつもよりすこし控えめに、けれど満足感のあるおかずを並べて、テーブルに向かう。

献立は、野菜たっぷりの味噌汁と炊きたての白ごはん、そして出汁をきかせた厚焼き玉子。
味噌汁の器を両手で包むと、鉄のやかんから注がれた出汁の香りがふわりと立ち上る。
素材の味がしっかり感じられて、心がすっと落ち着いていく。

ごはんをひとくち、味噌汁をひとくち。
静かな夜に、ゆっくりと箸を進めていく時間。
部屋にあるのは、自分の動きと、器の音だけだった。

茶葉は、いつもの煎茶。袋を開けると、ほのかに青く香る。
急須に茶葉を入れていると、外から風の音がかすかに聞こえた。
湯気の立ち方や、湯呑の口当たり、飲んだあとの余韻。
どれも、やかんで丁寧に沸かしたお湯だからこそ、優しく伝わってくる気がする。

一杯目を飲み終えたあと、湯呑を持ったまま、しばらくじっと座っていた。
何を考えているわけでもなく、ただ、今夜の空気に身をゆだねるように。
照明の明かりが少しゆらいで、壁の影が動いた。
やかんの黒い光沢が、ほんのわずかに光を返していた。

食事を終えたあと、鉄器のやかんにもう一度火をつける。
食後のお茶をいれるためだ。
お湯が沸くまでのあいだに、茶葉を急須に用意して、湯呑を並べる。

この時間が、いちばん好きかもしれない。
やかんの中で水が静かに熱を帯びていくあの音。
それを聞きながら、ほんのりとした満足感に包まれていく。

やがて小さく「ことっ」と音がして、やかんが知らせてくれる。
急須にお湯を注ぎ、ふたをして少し待つ。
そして湯呑にそっと移すと、部屋いっぱいに香ばしい香りが広がった。

ひとくち飲むと、やさしい渋みとほんのりとした甘みが口に残った。
鉄器のやかんで沸かしたお湯の、あのまろやかさが、お茶の味をひとつ引き立てている気がした。
どこまでも深く、静かな夜。

今夜も、心がほどけていくような時間が流れている。

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