六月の、曇りがちな朝だった。
雨が降りそうで降らない。空は鈍い白に覆われていて、光の輪郭がぼやけている。部屋の中には、冷たいような湿ったような空気が少し残っていて、気持ちがどこか落ち着かない。
けれど、今日は一日家にいる予定だった。
洗濯物はもう干した。掃除も軽く済ませた。あとはもう、ゆっくりと時間を使うだけの日。
そう思って、台所のほうに歩いていった。
なにか料理をしたいというよりも、冷蔵庫にあるものを少しだけ片づけたかった。ズッキーニ、新玉ねぎ、にんじん。どれも中途半端に残っていて、そのままにしておくには少し気になる。切っておけば何かしらに使えるだろう。そんな気持ちで、包丁を取り出した。
流しの横には、木のまな板を置く。
特別なものではない。ただの一枚板。白木のような淡い色をしていて、少しだけ使い込んだ跡が残っている。最初にこのまな板を使ったとき、包丁が吸いこまれるような音がしたのを今でもよく覚えている。
トントン、と刻む。
その音が、静かな部屋の中にやさしく響く。木のまな板は、音を吸収する。跳ね返すのではなく、包み込むようにして受け止める。
プラスチック製のまな板を使っていたころは、音が硬くて、いつも台所だけがにぎやかだった。でもこの板に替えてからは、包丁の音さえも静かなものになった。
ズッキーニを輪切りにする。玉ねぎを薄くスライスする。にんじんは、細かく刻んでおく。
ただそれだけの作業なのに、不思議と気持ちが落ち着いていく。料理というよりも、何かを整える時間のような感覚。
今日の昼ごはんは、味噌汁とごはんにすることにした。大げさなものは作らない。けれど、具だけはしっかりと入れる。刻んだ野菜をぜんぶ鍋に入れて、だしを加えて火をつける。ふつふつと沸いてきたら、火を弱めて、静かに見守る。
やがて、台所に湯気の匂いが立ちのぼってくる。
ご飯は、前に炊いておいたものを温め直しただけ。でも、湯気の立つ白いご飯と、野菜たっぷりの味噌汁があれば、それだけで食卓は満たされる。
食べ終わって、食器を洗う。最後に、まな板を水で流す。表面に触れると、すっと水を吸う感触がある。軽く洗って、布巾で拭き取ると、白木の色が少しだけ濃くなる。
この時期は湿気が多いから、すぐに立てかける。風通しのいい場所に置いておけば、しっかり乾いてくれる。
ときどき、まな板の表面を削ってもらうことがある。使い込んだ跡が消えて、まるで新しい板のようになる。けれど、それまでの時間が消えてしまったようにも感じられて、どこか寂しい。でも、それもまた道具の一部なのだと思う。
音がないというのは、不便なことではない。
何もない時間。誰とも話さず、ただ台所に立って、野菜を刻む音だけが響いている。それは、静かで豊かな時間だった。
木のまな板は、そんな時間によく似合う。
たくさん語ることはないけれど、暮らしの中で、確かに支えてくれている存在。
今日も使って、洗って、乾かして、また明日。
そうやって、毎日が少しずつ積み重なっていく。
▼しずかな時間に馴染むもの▼
柔らかい刃あたりと、音が響きにくい静けさが魅力の木のまな板。削り直して長く使えるので、台所にひとつ置いておくと、毎日の料理の時間がすこしだけやさしくなります。

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