少しだけ早く目が覚めた朝だった。
空気はまだ冷たくて、カーテンの隙間から射す光も、白くて淡い。
まだ誰も動き出していないような気がして、足音さえも静かにしながら台所に立つ。
今日の朝ごはんは、目玉焼きとソーセージにしようと思った。
ただ焼くだけなのに、鉄のフライパンを使うと、なんだか少し丁寧になる。
いつも通り、コンロの下からそのフライパンを取り出す。
手に持つと、ずっしりとした重みがある。
温かさはないのに、手のひらが落ち着く。
使い慣れてきたとはいえ、油の馴染み具合や焼きムラは、まだまだ均一じゃない。
でも、それも含めて“育っている”という感じがして、気に入っている。
火をつけて、まずはフライパンを空のまま温める。
鉄は、慌てると焦がしてしまうけれど、焦らなければ裏切らない。
中火の炎が、鉄の底をじんわりと温めていく。
少しして、手をかざすと、ふわりとした熱が立ちのぼってくる。
油をひいて、フライパン全体にまわす。
サラサラとした音。鉄の表面に、油がゆっくりと広がっていく。
その音を聞きながら、ソーセージを2本、そっと置く。
じゅわっという音がして、油が小さくはねる。
火を少し弱めて、そのまま焼き目がつくのを待つ。
すこしずつ、ソーセージの皮が膨らみ、ところどころがぷくっと盛り上がってくる。
その間に、卵をひとつ割る。
割った卵を、ソーセージの隣にそっと落とす。
黄身がぷるんと揺れて、白身がじゅわっと広がる。
油の熱をしっかり受け止めて、ふちがこんがりと色づいていく。
キッチンに、静かな音が満ちていく。
じゅう、じゅわ、という油の音。ときどきポンと跳ねる細かい気泡の音。
そのリズムが心地よくて、ただそれを聞いていた。
焼けていくあいだ、まな板の上で少しだけ野菜を切る。
レタスをちぎって、きゅうりを薄くスライス。
トマトをひとつ、静かに切って並べる。
野菜の準備はそれだけ。サラダというほどでもない、ただの添えもの。
でも、そういうものがあるだけで、朝の食卓が整っていく気がする。
フライパンに目を戻すと、ちょうどいい具合に焼き色がついていた。
ソーセージをくるっと転がし、卵の焼き具合を確認する。
黄身はまだとろりと柔らかく、白身は端がカリッと香ばしい。
このバランスが好きで、つい毎回同じように焼いてしまう。
火を止めて、皿に盛る。
ソーセージの焼き目、卵の黄身の丸み。
そこに、さっきの野菜をそっと添えて、黒胡椒をひとふり。
それだけで、ちゃんとした朝ごはんに見える。
パンは焼かなかった。
代わりに、昨日炊いたご飯の残りを温める。
味噌汁も、作りおきのを小鍋で温めなおしただけ。
でも、ご飯と味噌汁があると、それだけで安心する。
静かな朝の食卓。
窓の外はまだ淡い色のままで、鳥の声も聞こえない。
ひと口目のソーセージは、皮がぷつんとはじけて、肉汁がじわっと広がる。
卵は、黄身を崩して、白ごはんにのせて食べた。
とろとろの黄身が、ご飯のあたたかさとまじって、なんともやさしい味になる。
味噌汁は、豆腐とわかめの、あっさりとしたもの。
朝の空気に、味噌の香りがほんのり混ざる。
しばらく、何も考えずに食べた。
目の前のものを、ゆっくりと味わうだけ。
あたたかいものを、あたたかいうちに。
食べ終わったあと、フライパンを洗う。
水とたわしだけ。洗剤は使わない。
お湯で流して、こすって、火にかけて乾かす。
最後に油を少しだけなじませて、また棚に戻す。
それだけのことなのに、道具との関係がすこし深まったような気がする。
またこのフライパンで焼こうと思った。
同じように焼いても、たぶん少しずつ、味も焼き色も変わっていく。
そうやって付き合っていくのが、鉄のフライパンの面白さかもしれない。
朝の光が、少しずつ部屋の奥まで届いてきた。
窓の向こうで、誰かが洗濯物を干す音が聞こえる。
特別な朝じゃないけれど、ちゃんとした朝だった。
焼いただけ、盛っただけ。
でも、そこに火と音があったから、今日がはじまったように思えた。
▼しずかな時間に馴染むもの▼
火にかけるたび、少しずつ育っていく鉄のフライパン。
ただ焼くだけの朝が、静かなひとときに変わっていきます。

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