風と光を連れて帰る日

その日は朝から、少しだけ空気がやわらかかった。

夏が近づいているのを感じるのは、温度というよりも、光の輪郭だった。
窓の向こう、建物と建物の隙間から射し込んでくる光が、いつもより広がって見える。
影がうっすらと伸び、そこに風が通ってゆく。

なんとなく、外に出たくなる日だった。

部屋を出るとき、ショルダーバッグだけを持った。
財布とスマートフォン、鍵。
それだけ入れば十分な大きさのコンパクトなバッグ。

ちょっとそこまで、というときはたいていこの格好になる。
ポケットに突っ込むよりも、ほんの少しだけ心が落ち着く気がするから。

外に出ると、風が少しだけ涼しかった。
季節が完全に入れ替わる前の、あの「まざりあい」の時期。

道ばたの花の香りや、木陰の土の匂いがどこかやわらかくて、
ああ、今日はいい日だなと思った。

歩きながら、目的地のないままに少し遠回りをしていた。
近所の小さな川のほとりを抜け、少し坂を上ったところで、ふと八百屋の軒先に目が止まる。

ころんと丸い新じゃがいも、小ぶりの玉ねぎ、うすいグリーンのスナップえんどう。
並べ方に何か特別な工夫があるわけではないけれど、どれも自然と目を引いた。

そして何より、そっと立ち止まったのは、
「そろそろご飯をつくろうかな」と、自然に思えたからだった。

いつもなら、「手ぶらだし」と通り過ぎてしまうかもしれない。
でも今日は、いつものショルダーバッグの中に、くるくると丸めた小さなエコバッグが入っているのを思い出した。

折りたたんでポケットにも入るくらいのサイズ。
薄いけれど丈夫な生地で、軽くて、重さを感じない。

あまりに自然に持ち歩けるので、最近は外に出るときはだいたいこのバッグの中に入れている。

それをさっと取り出して広げ、じゃがいもと玉ねぎ、スナップえんどうを選ぶ。
ちょうど旬のものばかりで、見るからにしゃきっとしていた。

少し迷って、トマトも追加した。
ご飯というより、初夏の食材を味わいたくなってきたのだ。

家に戻るころには、空の色が少し変わっていた。
午後の光は、なぜか時間を引き延ばすようなところがある。

玄関で靴を脱いで、買った野菜をキッチンに広げる。

まずはじゃがいもを水につけておく。
皮ごと使うつもりだったので、少し丁寧にたわしで洗ってから、皮をむかずにくし形に切った。

玉ねぎは薄くスライスし、スナップえんどうは筋を取り、さっと湯がく。
今日は、野菜の味をそのまま味わいたい気分だった。

フライパンにオリーブオイルをひき、じゃがいもをじっくりと焼きつける。
油の音がパチパチと響いて、台所に静かにひろがる。

玉ねぎを加えたあと、少し火を弱めて、塩をひとつまみ。

トマトはそのまま切って、軽く塩をふって、器に盛るだけ。
スナップえんどうはオリーブオイルと少しのレモン汁、白ごまで和えて、即席の副菜にした。

ご飯は炊いていなかったので、冷凍しておいたパンをトースターで焼いた。
今日はこういう気分のときだった。

食卓に野菜が並ぶと、それだけで気持ちがふっと和らぐ。
カトラリーの音さえもどこか遠慮がちに聞こえて、時間が静かに流れていく。

じゃがいもは表面がカリッと、中はほっくりしていて、玉ねぎの甘さが絡まっている。
「ああ、これはいい時間だな」と、そんなふうに思った。

スナップえんどうはしゃきっとしていて、レモンの香りがあとからやってくる。
トマトはきりっと冷たくて、噛むとじゅわっと甘い。

しばらく歩いたあとに、ふと思い立って買った野菜と、
歩いた午後の風と、静かに過ぎていく時間。

少しずつ陽が傾いて、窓の外に、光の筋が伸びていく。

食べたいものを自分で選び、自分の手でつくって、ゆっくり味わうということ。
それができるだけで、今日という一日は、もう充分だった。

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