朝から降っていた雨は、午後になっても止む気配がなかった。
強く降るわけではないけれど、途切れずに静かに続く雨音が、部屋の空気を包んでいる。
梅雨らしい日。
窓の外に広がるのは、どこまでも湿り気を含んだ白い景色だった。
こういう日は、体も気分もゆっくりと動く。
動かそうとしなければ、ずっと同じ姿勢のままでいられてしまいそうな午後。
けれど、そんな時間にこそ、あたたかいものを食べたくなる。
何かを整えるために、鍋を火にかけたくなるのだ。
冷蔵庫には、昨日買っておいた野菜がいくつか残っていた。
白菜、長ねぎ、にんじん、しめじ。それに豚バラの薄切り肉も。
余っていた豆腐も加えれば、十分すぎるくらいの鍋になりそうだった。
使うのは、ひとり用の小さな土鍋。
一人分の食材を気兼ねなく詰め込めて、そのまま食卓にも出せるちょうどいいサイズ。
火にかける音や、煮立つ湯気までもが、道具の一部になっているような佇まいがある。
少しだけ昆布を水に浸しておき、野菜を切る。
白菜の芯はざくざくと、にんじんは短冊切りに。ねぎは厚めに斜め切りにしておく。
土鍋の中に、切った野菜としめじを重ねて入れ、上から豚肉を並べる。
豆腐は最後にそっと。
味つけはほんの少しの白だしだけ。
それでも具材から自然に出てくる旨味で、きちんと美味しくなることを知っている。
火をつける。
音が、空気を変える。
静かな部屋の中で、コトコトと煮える音がリズムをつくっていく。
テーブルの上を軽く拭き、小さな陶器の器とレンゲを用意した。
箸置きに、最近気に入っている真鍮のものを使う。
どれも毎日使うようなものではないけれど、雨の日にだけ使いたくなる道具たち。
しばらくして蓋を開けると、湯気がふわっと立ちのぼった。
土鍋の中では、野菜が透き通るように煮え、豚肉もやわらかくなっていた。
あたたかさの塊が、そこにある。
席について、ゆっくりと鍋をいただく。
最初にすくったのは、にんじんと豆腐。
ほどよく煮えたにんじんは、甘く、口の中で崩れていく。
豆腐は出汁をたっぷり含んでいて、ひと口ごとにしみ込んだ味が広がる。
つづいて、白菜と豚肉。
重なり合って煮込まれたふたつは、互いの味を引き出しあっていて、もう何も足さなくてもいい。
噛むごとに、体があたたまっていく。
食事というよりも、湯気ごと体の中に入っていくような感覚。
雨の音は変わらず、規則的に聞こえていた。
窓に打つ水の粒と、鍋から立ちのぼる湯気が、似たようなリズムを刻んでいるように思える。
ごはんがあったわけでも、特別な料理を用意したわけでもない。
ただ、野菜と肉を煮ただけ。
でも、食べ終えたあと、驚くほど心が満ちていた。
食器を下げて、土鍋だけがテーブルに残った。
ほんの少し残った汁を見ているだけで、しばらくぼーっとしてしまう。
土鍋というのは、鍋として使うだけでなく、
「その時間を包む器」なのかもしれない。
ひとりでごはんを食べる時間に、音と香りと湯気を添えてくれる。
▼しずかな時間に馴染むもの▼
ひとり分の鍋を静かに煮込むのに、ちょうどいい道具です。
食事の時間が少しだけ豊かになります。

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