夕方、思っていたよりも早く疲れてしまった。
人の多い場所に長くいたせいか、身体よりも気持ちのほうが消耗している。
なんでもない会話に気を張り、流れるような人の波に逆らわず歩き続けて、帰るころには、どこにも出かけたくない気分になっていた。
けれど、なにも食べないわけにはいかない。
あたたかいものが、ほんの少しだけほしい。外食ではなく、家で、できれば静かな時間のなかで。
そう思って、帰宅してからゆっくりと準備を始めた。
今日は、ひとつだけ使ってみたい道具があった。
アルコールストーブ。
キャンプ道具の棚に並んでいるのはよく見かけていたけれど、実際に手にするのはこれが初めてだった。
燃料用アルコールを注ぎ、火を点けるだけのとてもシンプルな構造。ガスのような派手さはなく、スイッチも、音も、なにもない。ただ、静かに灯る炎があるだけ。
災害時にも使えると聞いて、緊急用に持っておこうと思っていたものだったけれど、その静けさに惹かれて、今夜は初めて火を入れてみることにした。
場所は、自分の部屋の片隅。
換気をして、五徳を置き、小さな網をのせて、その下にストーブをセットする。部屋の照明は落として、間接照明と、火の光だけ。
ライターを近づけると、ふっと炎があがる。
音はしない。耳を澄ませても、なにも聞こえない。
けれど、そこにはたしかに熱と、やわらかな光がある。
ひと息ついて、冷蔵庫からビールを出す。
グラスにゆっくりと注ぐと、泡が静かに立ちのぼり、火に照らされた液体が透きとおった琥珀色に見える。グラスの縁がほのかに光をまとって、まるでどこか別の国の静かな夜にいるような気分になる。
小さな音を立てて、網の上にウインナーを置く。
皮の表面がすぐに熱を帯びて、やがてパチパチとはぜるような音がしてくる。音のない炎のなかで、唯一「焼いている」という実感をくれる音。
焦げすぎないようにときどき向きを変えながら、ほどよく焼けたところで箸で持ち上げる。
グラスのビールをひと口。冷たさが喉を通り抜ける。
さっきまでざわざわしていた気持ちが、すこしずつほどけていく。
ウインナーを口に入れると、脂のにじむ熱が広がって、塩気と香ばしさがちょうどよく重なる。
派手な食事ではないけれど、静かで、落ち着いた味。
次は厚揚げ。
ゆっくりと焼いていくと、表面が乾きはじめ、やがてうっすらと焦げ目がつく。裏返すと、こんがりと焼き目がついていた。豆腐が持っていた水分が抜けて、香りが立ちのぼる。
焦げすぎないように火加減を見ながら、もう片面も焼く。
しっかりと焼けたところで、薬味と醤油を少し添えて食べる。
表面はさくっとしていて、中はふわっとしている。
厚揚げを焼いただけのものなのに、炎のそばで、焼き加減を見ながら食べると、それだけで格別な料理のように感じる。
アルコールストーブの火は、ずっと静かに燃え続けている。
ときどき揺れるその炎は、ガスのように青くはない。やや黄色がかった柔らかな色をしていて、見ているだけで安心する。燃えるというより、「灯っている」という表現が似合う火だと思う。
最後に、餅。
切り餅を網にのせて、じっくりと焼く。
時間をかけて、角が丸くなり、ゆっくりと膨らんでいく様子を見るのは、いつでも楽しい。じわじわと焦げ目が広がって、ふっくらとしたかたちに変わっていく。
焼けた餅の片面に、醤油をすこし垂らす。
じゅっという音がして、香ばしい香りが立つ。
そこにハムとスライスチーズを挟み、もうひとつの餅を重ねるように折りたたむ。最後に、手で巻いた海苔でくるりと包む。
もちの弾力、ハムの旨み、チーズのとろける食感。
噛むたびにそれぞれの味が重なっていって、予想以上に満足感がある。外はパリッと、内側はもっちりと。醤油の焦げた香りが、あとを引く。
グラスの中のビールは少しぬるくなっていたけれど、
火に照らされたその色は、さっきよりも深く見えた。
火のある夜は、ただ食べて飲むだけの時間も、少しだけ豊かになる。
手をかけたわけじゃない。特別な食材でもない。
けれど、目の前で炎が揺れているというだけで、何かが変わる。
このアルコールストーブは、防災用品としても使えるものだ。
もし電気やガスが使えなくなったときにも、湯をわかしたり、簡単な調理ができる。
けれど、そういう非常時だけでなく、今日のように心が疲れた日に、ただ灯してみるだけでもいいと思う。
燃えているのに音がしない火。
手をのばせば届きそうなのに、どこか遠くを見ているような炎。
その前で食べる一皿と一杯の飲みものが、心を静かに整えてくれる。
またこの火を灯したいと思う。
次は、外で使ってみるのもいいかもしれない。
けれど、今夜はこの部屋で、じゅうぶんだった。
静かな夜に、ひとりで焼く。
それだけで、満たされることがある。
▼しずかな時間に馴染むもの▼
今回使ったアルコールストーブは、音がまったくしない小さな火が印象的な道具。
シンプルな構造で扱いやすく、非常時にも役立つ安心感があります。

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